8ミリ映写室#3ありがとうございました
8ミリ映写室#3は「よみがえる大船渡」と「よみがえる浪江町」の2本立てでした。どちらも11年前の震災で多くを失ってしまった町。そのかつての風景が、震災の爪痕と共によみがえる貴重なフィルムでした。
上映後の座談会では、2011年3月11日の記憶を参加者おひとりおひとりがたどり、思い巡らしながら語ってくれました。
「あの時京都にいた。大きなショックを受けながら何処か遠い出来事だった。ずっと後ろめたさがあった。今日少し向き合えた気がしてよかった」
「東京にいた。私は職場にいて、高校生の娘が自宅で食器棚から食器が飛び出したと怖くて泣いていた。都内の機能はほぼ停止していた。古い映像は有弁だなとあらためて考えさせられる。答えは出ないが、貴重な時間だった」
「自分のことじゃないのにすごく懐かしい。冒頭から泣けてきた。ああいう時代を知っているからか、あの人たちのふるさとがもうないことも知っているからか」
「『8ミリは笑顔の媒体である』ということばを実感しながら見ていた。当時の生活や文化が色濃く映り込んでいた。例えば、結婚式のシーンでは、新郎新婦は下座に位置していたなど…」
「おじいちゃんとおばあちゃんのことを思い出した。日々の当たり前のことを思い出したい、それを思い出すヒントがいっぱいある。遠い昔から連綿と続いているこの命を大事にして、寄り添って生きていきたい」
「港の大漁旗のシーンが一番印象に残った。津波でもうないんだな…と思う。40数年前のこのフィルムの時代から現代に至る変化には、震災のような大きな出来事による変化と、私たちが日々選択する小さなことの積み重ねによる変化とがあることを思った」
「放射能や原発が怖かった。見えないものの怖さになかなか直視できなかった。昆布あめ(ヨウ素)をたくさん買ってたくさん食べていた。お店の復旧で東北にも足を運んだ。みんなでおしゃべりしながらお茶したり災害ユートピアはなんだかよかった。」
「東京でリクルートスーツを着て就活中だった。秋葉原の居酒屋で見知らぬ女子と過ごしていた。怖くて枝豆を食べる手が震えていた。それから価値観が変わってスーツを着ることがなくなった。震災の映像は怖くて見れず、ボランティアにも行けず、後ろめたさがあった。どう向き合ったらいいのか、わからず今日ここにきた。浪江の最初の映像と最後の映像が、現在の姿になっていて、その構成にグッときた。映像はすてきだった」
みなさんそれぞれの言葉ひとつひとつが、とても心に沁み入る時間となりました。
次回は4/3(日)「小豆島の記憶」です。